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「河童忌」に芥川龍之介を偲ぶ

2008/08/27

純文学の登竜門としての最高峰「芥川賞」。その文学賞のルーツとなる作家・芥川龍之介が、実は豊島区と深いゆかりを持つ。菩提寺である巣鴨・慈眼寺に眠る文豪の「80回忌」となる今年。
7月24日の命日、「河童忌」に豊島区との縁をもとに芥川龍之介を偲ぶ。

01.芥川龍之介の生い立ち

芥川龍之介は1892年3月、東京市京橋区入船町8丁目(現在の東京都中央区明石町)で、牛乳屋を営む新原敏三とフクの長男として生まれた。生後8カ月後になった頃、母フクが精神病を患い、母方の実家である芥川家に預けられ伯母に育てられた。その後、10歳のときに母が他界。翌年正式に叔父の芥川道章の養子となりそこから芥川姓を名乗ることになった。芥川家は江戸時代、代々にわたり徳川家に仕えた名士。雑用や茶の湯を任せられた由緒ある家柄とされている。芥川家に迎えられた龍之介は、江東尋常小学校、東京府立第三中学校(現両国高校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学(現東京大学)英文科に進学。大学在学中に、作家活動を始める大きな出会いをする。1914年に、菊池寛、久米正雄らとともに同人誌第三次『新思潮』を刊行。同年、処女小説となる『老年』を発表した。これが、作家活動の本格的な始まりとなった。

02.芥川龍之介のあゆみ

大学4年次となる1915年に、代表作となる『羅生門』を発表。その後、級友の紹介で夏目漱石の門下に入り、16年に書いた『鼻』が漱石に絶賛された。作家としての大きな期待を背に、その年、東大英文科を2番の成績で卒業。海軍機関学校の英語教官となり教鞭を執りながら、創作活動に励んでいった。
 芥川龍之介の作品は、代表作として多くの短篇小説が知られている。しかし初期の作品には、西洋の文学を和訳したものも多く存在し、また作品の文章構成も英文的な側面があると評されている。大学時の英文科で培った創作表現が、その後の作風にも活かされていくことになったようだ。
 1919年に教職を辞して大阪毎日新聞社に入社。とはいえ新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない待遇で、これを機に創作活動に専念していくことになる。年に文夫人と結婚。多くの傑作を生み出していくが、年の中国視察旅行からの帰国後あたりから、次第に心身が衰え始め、湯治場に静養に出かけることが多くなった。
作品数は減っていくが、この頃から私小説的な傾向の作品が増え始め、晩年の『歯車』『河童』などの作風につながっていった。
 そして、1927年7月24日の未明。田端の自宅で致死量の睡眠薬を飲み服毒自殺。遺書として久米正雄に托した手紙の中で、動機について「少なくとも僕の場合は唯ぼんやりとした不安である。」と記していた。享年35歳。稀代の文豪の短すぎる生涯は幕を閉じた。

■芥川龍之介の資料を展示する東京近郊の文学館

神奈川近代文学館 (横浜)

ほかに夏目漱石や三島由紀夫など神奈川ゆかりの文士の資料を展示。
住所:横浜市中区山手町110
電話番号:045-622-6666
開館時間:9:30~17:00
休館日:祝日除く月曜・年末年始

鎌倉文学館 (鎌倉)

大正5、6年頃に、一時期鎌倉に滞在した龍之介。7月に資料を展示予定。
住所:神奈川県鎌倉市長谷1-5-3 
電話番号:0467-23-3911  
開館時間: 9:00~17:00
※入館は16:30まで(3月~9月) 
休館日:月曜(7/16開館、7/17休館)、展示替期間(7/10~13)

日本近代文学館 (目黒)

近代文学の資料がいっぱいの資料館。もちろん芥川龍之介の関連も所蔵。
住所:目黒区駒場4-3-55(駒場公園内)
電話番号:3468-4181 
開館時間: 9:30~16:30  
休館日:日・月・第4木曜・2、6月の第3週・年末年始

03.芥川龍之介と慈眼寺

巣鴨駅から歩いて15分ほどにある慈眼寺。芥川龍之介のほか、司馬江漢や小林平八郎の墓もある。
巣鴨駅から歩いて15分ほどにある慈眼寺。芥川龍之介のほか、司馬江漢や小林平八郎の墓もある。
芥川家の菩提寺について、龍之介は作品「本所両国」の中で、次のように触れている。
  「昔は本所にあった家の菩提寺を思い出した。この寺には何でも司馬江漢や小林平八郎の墓の外に名高い浦里時次郎の比翼塚も建っていたものである。(略)この寺は慈眼寺という日蓮宗の寺で震災よりも何年か前に染井の墓地のあたりに移転している」
 芥川龍之介の墓がある慈眼寺は、元々は立野山慈眼寺と称し、1615年に深川六間堀(現在の江東区新大橋)に寺を建立したことに始まる。1693年に猿江2丁目(江東区猿江)に移り、1912年に今の豊島区巣鴨に再移転、山号を正寿山と改めた。
 寺にはほかにも江戸時代の蘭学者・司馬江漢や、忠臣蔵で吉良方の護衛役として奮闘した剣豪・小林平八郎の墓がある。また龍之介が晩年に、小説の質は物語の面白さに因るか否かの文学論争を繰り広げた谷崎潤一郎の分骨も眠るなど、古くからの因縁を感じさせる。龍之介は、菩提寺に対して深い思いを抱いていたようで、特に猿江に寺があった時代の思い出について、「本所両国」で次のように綴っている。
「あのじめじめした猿江の墓地は未だに僕の記憶に残っている。なかんずく薄い水苔のついた小林平八郎の墓の前に曼珠沙華の赤々と咲いていた景色は明治時代の本所以外に見ることの出来ないものだったかも知れない」 慈眼寺の境内にある龍之介の墓は、本人の遺言によって、墓石が愛用していた座布団と同じ形と寸法で作られている。寺に対する深い造詣と墓に対する故人の思いが伝わってくるようだ。

■菩提寺を大切にした芥川龍之介の遺志

慈眼寺の境内にある龍之介の墓は、本人の遺言によって、墓石が愛用していた座布団と同じ形と寸法で作られている。寺に対する深い造詣と墓に対する故人の思いが伝わってくるようだ。
  慈眼寺の現在の住職は、26代目となる篠原智高氏。今から80年前、龍之介の葬儀の導師を務めたのが、祖父にあたる篠原智光住職だった。
芥川龍之介の墓。本人愛用の座布団と同じに作られている
芥川龍之介の墓。本人愛用の座布団と同じに作られている
 葬儀は7月27日に700名を越す会葬者が集まり、親交の深かった泉鏡花・里見淳・菊池寛の3名が弔辞を読み、若くして去った才能の短い生涯を悼んだ。
 龍之介には、妻と三人の息子がいた。精神的支柱を失った家族を、その後も智光住職は常に励まし続けたという。妻の文は子供たちを連れてよく寺に足を運び、住職と話を交わし、墓参してお題目を唱えた。文は1963年に他界したが、その後も兄弟たちは父母への供養を怠らず続け、寺から授かった法華経の経本とテープを大事にしながら祈りを捧げたという。

04.芥川龍之介が過ごした文士村・田端

※上記は「田端文士村記念館」選定散策ルートです。
※上記は「田端文士村記念館」選定散策ルートです。
田村文士村記念館
田村文士村記念館
田端駅南口より歩いて5、6分のところにある。現在は3軒に分割されているが、右側の塀は当時の俤が残っている
田端駅南口より歩いて5、6分のところにある。現在は3軒に分割されているが、右側の塀は当時の俤が残っている
龍之介旧宅近くの坂道。龍之介は、書簡のなかで「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いている
龍之介旧宅近くの坂道。龍之介は、書簡のなかで「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いている
自分が病を患っている部分と同じところに赤紙を貼ると治ると伝えられる「赤紙仁王像」が有名
自分が病を患っている部分と同じところに赤紙を貼ると治ると伝えられる「赤紙仁王像」が有名
「田端区民センター」前に 田端文士村の標示板がある
「田端区民センター」前に 田端文士村の標示板がある
田端に住む洋画家の社交場 となった「ポプラ倶楽部」。 現在は田端保育園に
田端に住む洋画家の社交場 となった「ポプラ倶楽部」。 現在は田端保育園に
板谷波山は、明治~昭和期の日本の陶芸家で、田端に住居と工房を新築した
板谷波山は、明治~昭和期の日本の陶芸家で、田端に住居と工房を新築した
田端駅南口より歩いて5、6分のところにある。現在は3軒に分割されているが、右側の塀は当時の俤が残っている。
田端駅南口より歩いて5、6分のところにある。現在は3軒に分割されているが、右側の塀は当時の俤が残っている。
巣鴨の慈眼寺から歩いて30分ほどのところ、龍之介が、新宿から田端に住まいを移したのが1914年、22歳のときである。以後、亡くなるまでの13年間をこの地で暮らした。14年は処女作『老年』を発表した年。数々の傑作を生み出したその後の創作の過程の中に、この田端で過ごした日々が重なっている。
  田端に移ったのは、父道章の知人が同地で「天然自笑軒」という会席料理屋を出しており、その紹介によるものとされている。ちょうど慈眼寺が2年前に巣鴨に移ったところで、それに近かったことも田端に移った理由の一つだったに違いない。
 龍之介がこの地に移り住んで創作に励み、多くの傑作を世に送り出したことは、田端という街にとっても大きな転機となった。文士たちが競うように作品を発表、その過程で龍之介に影響を受けた多くの作家たちが、この地に移り住むようになった。田端は、都内でも希少な「文士村」として、広く知られるようになったのである。
  ちなみに龍之介の旧宅跡は、現在のJR田端駅から歩いてすぐの切通し道路を脇に入ったところにある。
  好んで暮らした田端を基点に、菩提寺のある巣鴨、そして目白を舞台にした文豪たちとの交流など、豊島区とその周辺に今も残る龍之介の足跡。80回目の命日となる今年、その道程に思いを馳せながら、辿ってみてはいかがだろう。

この情報の出典 「まるごと池袋マガジン 池袋15’」