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特集!まちを楽しむ

アメリカ人宣教師マッケーレブが愛した「雑司が谷」

2008/08/27

2007/11/01

アメリカ人宣教師・マッケーレブが自らの居宅として、明治40年に建てた「雑司が谷旧宣教師館」。築100年を迎える今年、雑司が谷を愛したマッケーレブの足跡を辿ってみよう。

マッケーレブの生涯

宣教師アズビルの勧めで日本伝道を決意

 ジョン・ムーディー・マッケーレブは1861年、アメリカ・テネシー州中部ナッシュヴィル市郊外に、6人息子の末っ子として生まれた。 マッケーレブが生後6カ月のとき、35万坪の農地を持つ良心的な兵
役拒否者であった父を南北戦争で失う。父親を失った後は、農地も荒廃し、大変苦しい生活が続いたという。そんな状況の中でも、マッケーレブは母親から「嘘やお世辞はいけない」と教えられ、苦労を重ねながら勉学に励み、敬虔なクリスチャンに成長していく。マッケーレブが27歳のとき、ケンタッキー州レキシントンにあるカレッジ・オブ・ザ・バイブルに入学。ここで先輩の宣教師、アズビルとの運命的な出会いを果たす。マッケーレブは、彼の勧めによって日本伝道を決意したのである。
ジョン・ムーディー・マッケーレブ
ジョン・ムーディー・マッケーレブ
1907年に開校した「雑司ヶ谷学院」の学生たち。
中央にマッケーレブ。
1907年に開校した「雑司ヶ谷学院」の学生たち。
中央にマッケーレブ。
雑司ヶ谷学院の外観
雑司ヶ谷学院の外観
雑司ヶ谷学院での珍しい晩餐会風景。慎ましい暮らしが基本だったが、食事会やパーティーなども開かれた。
雑司ヶ谷学院での珍しい晩餐会風景。慎ましい暮らしが基本だったが、食事会やパーティーなども開かれた。
◇1907年に「雑司が谷学院」を開校◇
 新婚の妻、デラと日本に渡ったのは1892年のとき。築地、神田、小石川などを拠点に、布教活動や当時のスラムに住む人々の生活改善を目的として慈善事業を行った。
 その後、マッケーレブは「日本の将来は立派なクリスチャンとしての品格を備えた青年を育成することから始まる」と考え、キリスト教精神に基づく“青年教育”を実現するために、築地居留地内の自宅を5000ドルで売却。その資金で、青年教育のための学校を建てようと、目白台に2500坪の広大な土地を求めた。しかし、当時の日本女子専門学校(現・日本女子大学)から「女子学校の隣に男子学生寮は困る」との意見があり、代替地として雑司が谷の土地を入手したのである。
 この地に1907年、全寮制の「雑司ヶ谷学院」を開校。敷地内には、マッケーレブの居宅(現・雑司が谷旧宣教師館)が建てられた。学生は、昼間はそれぞれの学校に通い、夜間は同校で英語と聖書を学んだ。開校当初、学生は寮生13人、通学生5人だったという。

◇関東大震災で一部崩壊雑司が谷学院売却へ◇
 雑司ヶ谷学院は日本の近代化を目指すインテリたちの間で有名になり、マッケーレブと親交のあった徳富蘆花や初代忠犬ハチ作者の彫刻家、安藤照など、芸術家や財界人の出入りも多かったそうだ。しかし、1923年の関東大震災で、雑司ヶ谷学院の校舎の一部が損壊。資金的困窮から学院を閉鎖することになる。
  1928年には、学院建物を売却し、その資金で「雑司ヶ谷幼稚園」を創設。このとき土地を一部売却したため、マッケーレブ邸は曳家により現在の場所に移動することに。そして1941年には、第二次世界大戦で余儀なく帰国を命じられる。その後、日本に戻りたいとの思いは届かず、1953年、永遠の眠りにつく。享年92歳。 約50年間、日本で活動したマッケーレブ。その教えは、今なお多くの人々に受け継がれている。

館内をご案内

新築当初のマッケーレブ邸
新築当初のマッケーレブ邸
 1982年に、豊島区が雑司が谷旧宣教師館を購入。1989年に一般公開がスタートした。同館は豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものだ。 1999年には、東京都指定有形文化財にもなっている。 同館は、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な木造2階建ての住宅で、細部にゴシック様式のデザインが施されているのが特徴だ。1階は日曜学校や教会事務所、会食など公の場として使われ、2階はマッケーレブ個人が使用していたという。
マッケーレブと仲間の宣教師・アンドリューズ嬢、料理人のいそちゃんとの一枚。庭では、当時は珍しかった西洋野菜も栽培していたという。
マッケーレブと仲間の宣教師・アンドリューズ嬢、料理人のいそちゃんとの一枚。庭では、当時は珍しかった西洋野菜も栽培していたという。
1928年5月に創刊した機関誌 『道しるべ』。マッケーレブは多く の著書があり、活動の記録を残した 。
1928年5月に創刊した機関誌 『道しるべ』。マッケーレブは多く の著書があり、活動の記録を残した 。

*雑司が谷旧宣教師館の見どころ*

階段
重厚感あふれ、飴色に輝く階段
階段
重厚感あふれ、飴色に輝く階段
暖炉
1階居間の暖炉には、アールヌーボー風のタイルを使い、ケヤキ材の前飾がついている。
暖炉
1階居間の暖炉には、アールヌーボー風のタイルを使い、ケヤキ材の前飾がついている。
建物の意匠
玄関ポーチの方杖(ほうづえ)など、大工ゴシック様 式の特徴が随所に見られる。
建物の意匠
玄関ポーチの方杖(ほうづえ)など、大工ゴシック様 式の特徴が随所に見られる。
食堂
当時の食生活は質素だったと伝えられ、テーブルには 庭で採れたトウモロコシやトマトなどの生野菜をのせたカゴが置いてあったそうだ。
食堂
当時の食生活は質素だったと伝えられ、テーブルには 庭で採れたトウモロコシやトマトなどの生野菜をのせたカゴが置いてあったそうだ。
教会事務所
現在は児童図書コーナーに 。当時はこの部屋で機 関誌 『道しるべ』が編集された。机の上には謄写版 が置かれ、壁には黒板がかかっていたそうだ。
教会事務所
現在は児童図書コーナーに 。当時はこの部屋で機 関誌 『道しるべ』が編集された。机の上には謄写版 が置かれ、壁には黒板がかかっていたそうだ。
扉
居間と食堂のしきりの扉で、日本家屋には見らないモダンなつくり。

居間と食堂のしきりの扉で、日本家屋には見らないモダンなつくり。

見学のポイントを聞きました

左・石井雄三さん(豊島区文化商工部学習・スポーツ課長)
右・飯島眞さん(学習・スポーツ課郷土資料館長
左・石井雄三さん(豊島区文化商工部学習・スポーツ課長)
右・飯島眞さん(学習・スポーツ課郷土資料館長
庭に咲く、季節の花とともにご鑑賞ください。

 豊島区立雑司が谷旧宣教師館は、明治期に建てられた大変珍しい建物です。区民の方はもちろん、遠方から見学に来られる方も多く、今や東京の観光名所になりつつあります。
 建物の白い外壁はスカート状に広がり、大工さんのゴシック様式といわれるデザインが、“上げ下げ窓”や“玄関ポーチの方杖”などに見られます。西洋館では暖炉の煙突数が建物のステータスシンボルといわれるらしいのですが、マッケーレブの家はワンフロア3部屋の暖炉を背中合わせに配置することで、煙突一本でまかなっています。合理的、経済的に作られているんですね。庭にはベンチがありますので、四季折々の草花とともにゆっくりご鑑賞ください。
また周辺には、多くの文豪が眠る「雑司ヶ谷霊園」や、少し足を延ばすと、国の重要文化財「自由学園明日館」、そして「豊島区立郷土資料館」などがあります。豊島区の秋の散策をお楽しみください。

築100周年の記念事業

今秋、築100周年を迎える「雑司が谷旧宣教師館」では、貴重な記念イベントが盛りだくさん。当時のオルガンやベッドを初公開!

100周年式典・ガーデンコンサート(協)

会場:中庭
会期:11月4日(日)13:30~


11月4日(日)13:30から、高野区長をはじめ関係者来賓による100周年記念式典が中庭にて開催される。今回、100周年を記念して豊島区に文化を残そうと、持田製薬相談役で東京池袋ロータリークラブ会員の渡辺進氏の資金援助により、マッケーレブの仲間が使用したオルガンと、マッケーレブが愛用したベットが展示されることになった(詳細下記)。
セレモニーでは14:00~15:30に「ガーデンコンサート(協)」も開催。出演は蒲池悦子(ソプラノ)、佐藤弘和(ギター)、フローラカルテット(マンドリン)、コーロゾーネ(ア・カペラ)。一般参加の申込みは不要。当日直接会場へ。
写真はコンサートの模様(100周年を記念して9月23日に開催された、うた&マリンバアンサンブル「午後のコンサート」。出演:ピアノ・佐藤ちづこ、歌・高橋久子、マリンバ・池辺美智子、おはなし楽器職人・十二所秀正)

女性宣教師が使用したオルガン初公開

会場:1F食堂
期間:11月25日まで


マッケーレブの仲間の女性宣教師が使用したと伝えられるオルガンを初公開。このたび、100周年を記念して、オルガン所有者の野村基之氏(キリスト教史研究者)により「皆さんにみていただきたい」というご厚意から、公開されることになった。オルガンの美しい音色が響き渡った日曜学校や雑司ヶ谷幼稚園。この機会に、歴史ある貴重なオルガンを間近で鑑賞しよう。

マッケーレブ愛用の“ベッド”が復活

補修中のベッド。仕上がりをお楽しみに!
補修中のベッド。仕上がりをお楽しみに!
100周年を記念して、書斎(2F)として使っていた部屋に、マッケーレブが愛用していた「ベッド」が里帰りする。寝室は書斎のとなりに2部屋あるが、マッケーレブが雑司ヶ谷学院で生活していたときには、
来日した女性宣教師たちが使用していたそうだ。
ちなみにこのベッドは、オハイオ州立大学留学を終え帰国の途にあった石川角次郎(聖学院の初代校長)が、1892(明治25)年3月、サンフランシスコでマッケーレブと遭遇し親交を深め、彼に贈ったもの。マッケーレブの死後、ベッドは彼の顕彰者である野村基之氏(キリスト教史研究者)によって、ほかの遺愛品とともに日本に引き取られた。

読み継がれる、小川未明「金の輪」絵本展 ~吉田稔美の世界~

『金の輪』架空社刊 A4判 1,575円(1,500円+税) 不思議な感覚に引き込まれるストーリー。色彩豊かで、ほのぼのとした絵が印象的
『金の輪』架空社刊 A4判 1,575円(1,500円+税) 不思議な感覚に引き込まれるストーリー。色彩豊かで、ほのぼのとした絵が印象的
会場:2F
期間:11月25日まで


雑司が谷で暮らし、豊島区ゆかりの文芸雑誌『赤い鳥』でも活躍した童話作家、小川未明。1919(大正8)年に出版された小川未明の童話の代表作ともいえる『金の輪』が、このたび80余年の歳月を経て絵本化された。手がけたのは、絵本作家の吉田稔美さん。
ただ今、同館2Fにて絵本原画を展示する「読み継がれる、小川未明『金の輪』絵本展~吉田稔美の世界~」を開催中。11月10日(土)には吉田稔美さんの講演会が開かれるのでお見逃しなく!

[作家による講演会]
 開催日時/11月10日(土)14:00~15:00
 定員/30名 料金/無料
 内容/『金の輪』の解説ほか

「赤い鳥」を語り継ぐ、おばあちゃんのおはなし会

会場:1F児童図書コーナー
期間:11月3日(土)


大正期に童話作家・文学者・画家による子どものための文化運動が誕生。その中心的な役割を果たしたのが、児童文芸雑誌『赤い鳥』だ。『赤い鳥』に寄稿した作家は小川未明や芥川龍之介、菊池寛など。同館では毎月第1土曜日の14:00~15:00に詩人・小森香子さんによる「『赤い鳥』を語り継ぐ、おばあちゃんのおはなし会」を開催。

[『赤い鳥』を語り継ぐ、おばあちゃんのおはなし会]
開催日時/11月3日(土)14:00~15:00 料金/無料 
内容/『さかずきの輪廻』(小川未明作)、
     『罠』(丹野てい子作)を朗読 
※申込み不要、 直接会場へ 

この情報の出典 「まるごと池袋マガジン 池袋15’」